礼拝メッセージの要約です。メッセージ全文と動画は、YouTubeチャンネル 青堀教会 (クリックすると出ます)こちらできくことができます。

動画「空の鳥を見なさい」16分、「ヨナ物語」16分「あるお金持ちの救い」15分の動画,

他の動く紙芝居 動画を YouTubeチャンネル  にあげています。

 

 

 

 

         「大宣教命令は何故出されたのか」

 

 復活の主にガリラヤで出会った弟子たちは、そこで、大宣教命令を受けます。世界中に福音を宣べ伝えよというものです。

 では何故、福音は世界中に宣べ伝えなければならないのでしょう。

  主イエスは言いました「福音は全世界に宣べ伝えられ、それから終わりが来る」(マタイ24:14) 「あなたがたが油断して心が鈍っているうちに、突然、その日がわなのようにやってこないように、よく注意していなさい」(ルカ 21:34)  「狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い」(マタイ7:13)

 神が天と地を創り人間を造った時、人は罪のないものとして造られました。

しかし、サタンにあざむかれ罪を犯し、楽園を追放されます(創3:23)。

 その後の人々は、あまりにも邪悪だったため洪水で滅ぼそうとしてノアが選ばれ、ノアは100年何故舟を造っているのか証しましたが、信じる者はおらずノアの家族だけが救われました。 ノアの子孫はその後、バベルの塔を建て再び神に反逆します。 そこで神は彼らの言葉を乱し、世界に散らしていきます。 いつの時代も人はすぐに神を忘れ反逆の民となっていきました。 そこでアブラハムを選び信仰による救いを始めます。 子孫はイスラエルとなり、主イエスが誕生しました。 神さまは人間をただ追放したのではなく、楽園に連れ戻そうと計画を立てたのです。 収穫の時まで、人が神を選ぶかどうか待たれているのです(マタイ 13:37-40)。 大宣教命令が出されたのは、人々が救われるためです。失われた楽園に人を呼び戻すためなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「弱い時あなたは強くなる」

 

 イエスさまの弟子たちも、自分の弱さを認めない人たちでした。

 主イエスの逮捕後、途中まで付いて行ったペテロも恐怖で三回知らないと逃げてしまいます。

彼は落ち込み自分のふがいなさに失望し、自分を許すことができません。

 普段は、自分の弱さは隠しておいて、自分は強いと見栄を張って生きていますが、いざとなったらこうなるのかと、見せられてしまったのです。 

それまで持っていたプライドは、粉々に砕かれ、深く自分と向き合っていきます。隠れていた自分の愚かさ、自分勝手さが浮き彫りになっていきます。そこで初めて、「聖霊を待ちなさい」、「聖霊はあなた方を新しくする」という意味が分かるのです。

 

 パウロという人も大変強気で自分の判断や能力に誇りを持っていました。

主イエスを偽物と決めつけ、そのあやまちに気付かされ、悔い改め弟子となります。

 

パウロを通して奇蹟が起こり、神のみわざがあらわされていきます。 

そして、とうとう第三の天にまで行って神の国を見てきます。その後パウロに与えられたのは、弱さでした。パウロが高ぶらないように「とげ(何かの病)」が与えられたのです。

こんな弱さはない方が、もっと伝道は進んだのではないか、もっと動けたのではないかと思うのですがすが、そうではなかったのです。 

「私の恵みはあなたに十分注がれている。それで十分ではないか。 神の力は弱い人にこそ、最もよく現われる。」

自分の強さではなく、神の力により頼む事が真の強さにつながっていくのです。

 

  プライドを隠し持ってないか、自己中心を貫いていないか。自分の栄光を求めていないか。 自分を点検し、自分を捨て、力を受けていきましょう。 

 

Ⅱコリント 12:5-10

 

 

 

 

 

 

   「あなたには価値がある」      マタイ 6:26-34

 

  人間の愛を受けずに放置された犬や猫が、人間に飼われ飼い主に慣れていくのに多くの時間がかかります。人間は恐ろしくない。大丈夫だと分かっていくと心を開き、飼い主に愛情を示し、言うことを聞くようになっていきます。動物も、人間の愛情をうけていったら、こんなに変わるのかと思います。 そこで人も、神の愛がどれほど素晴らしいものなのか、分かってくると、心を開き、神を愛する人になっていくと思うのです。

 ヨハネという弟子は、「人間が先に、神を愛したのではなく、先に神の愛があって、それを知った人たちが、神の愛に応答していった」と書きました。

 パウロも、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することができるようにと祈りました(エペソ3:17~)。

  イエスさまが現れ、空の鳥を見なさい。野の花を見なさいと言いました。

その鳥は目立たない鳥、他の箇所では、カラスやスズメとなっています。

 腐った物でも何でも食べて、汚れているとされていたカラスや小さくて弱いスズメ。食べ物としても安く売られていて価値がない。特に、いい所も目立った特徴もない。野の花も雑草のたぐいで、ひっそりと咲いている花。

  そんな小さなものにも、神さまは良くして下さり、価値あるものとして見てくださっている。人間の本当の価値とは何か、人間はもっと価値あるものではないかと言うのです。  神はご自分のかたちに似せて人を創造し、一人一人が神の作品です。 高価で尊い存在です。人の目標は人格的に成長することです。価値ある者は、価値ある生き方を探して生きていきます。 

 

 

 

 

    「自分って誰?何したらいいの?」 

     

 自分は何をして生きて行ったらいいのか、迷うことがあります。

職業を選ぶ時も、自分のやりたいこと、得意なこと、自分が何に向いているかなど、いろんな条件を照らし合わせて決めていきます。

 職業が決まっても、また、そこで何を大事にするか、何を優先するか、選んでいかなかなければなりません。そこで大事なのは、創造主の存在です。

  天地万物を造り、人間一人一人に個性を与えて造ったのは、創造主です。創造主が自分に何をさせたくて、自分を造られたのか、聞くべきだとは思いませんか。 どのように生きて行ったらいいのか、その時その時、何が最善なのか聞いてゆくことで、うまくいくことも増えていくでしょう。

 ダビデ王には、息子が19人いました(サムエル下3:2-5、歴代下3:5-9)、他に、そばめにも子がたくさんいたそうです。 ダビデの後、王になれるのは一人でした。しかし、その内の何人かが王様になろうと争い、殺し合いになりました。本来見方であるはずの家族の仲は悪くなり、大混乱に陥ったのです。 自分がなりたいから、自分がふさわしいからと、自分で決めるのではなく、神に聞いて行くべきだったのです。 

 王に選ばれたソロモンは祈りました「あなたが、私を王とされたのですから、今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりし、この大いなる、あなたの民をさばくことができまるでしょう」。

  ソロモンは、神の御計画の中で、神の御心を求めて歩んでいきました。   骨も内臓も肉体も、それぞれの特徴や好みも環境も状況も、神さまの特別な御計画によります。いつでも、御心を求めていくことが最善です。

 

 

(詩篇 139:13-16)

 

 

 

 

 

 

  「キリストは、何のために来たのか?」 

 

 人がもろもろの罪を犯す原因は、「内に宿った罪」にあり、罪が人を束縛し、駆り立てて悪を行わせているのです。 パウロは、こう言いました「私は神の律法を喜んでいる・・・律法はいいものだ、そのように歩みたい! しかし、出来ない。 自分でやりたくないと思っていることを、やっているとしたら、問題は、私にあるのではなく、罪にある。何と自分はみじめなのだろう」(ローマ7:19~24)と。 人間の汚れた性質(肉)が心の内に働いて、諸症状を生み出しているのです(ガラテヤ 5:19-21) それに対し聖書はこう言っています。 「罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。」 ヨハネ 16:9、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 ヨハネ1:29、 「キリストが現れたのは、罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」 Ⅰヨハネ 3:5、 「ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである」 ヘブル 9:26。

 キリスト・イエスを信じた者は、罪から解放されます。 

 全ての罪が赦されるだけではなく、アダム以来、引き継いできた罪の性質が、きよめられるのです。 「わが義人は、信仰によって生きる。」ヘブル 10:38。 「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」 Ⅰヨハネ 3:9。 継続してだらだらと、罪を続けることはないという意味です。 悔い改めて更にきよめられ、聖化の道を生涯歩み続けるのです。 キリストは、世の罪を取り除くために来たのです。・・・・ヘブル 9 :26-28

 

 

 

 

     「キリストとの出会いで、人生は変わる」

 

  人はそれぞれに、神によって創られ、神の計画のもとに人生を与えられたのですが、自分の思いや考えで違う方向に行ったり、ずれた生き方をしてしまうことが多くあります。 イエスに出会うことは大変重要で、イエスの声に聞くことで、人は初めて正しく歩むことになるのです。それが抜けてしまった人生を、的外れ(罪)と言います。

 サウロ(後のパウロ)は、熱心に神のことばを学んでいたのですが、イエスの十字架に躓き、神の子が呪われて木に架けられ死ぬはずはない。

 それを信じる者たちは、大間違いをしている。これを早く終わらせようと、迫害のために先頭に立ち動き始めます。 大祭司から推薦状をもらい、仲間を連れて意気込んで出かけたダマスコ途上で、突然光に打たれ、倒れ込みます。

 「サウロ、サウロ、あなたはなぜ、私を迫害するのか」サウロが、どなたですかと聞くと返事があって、神であるイエスご自身が語っていることが分かります。 サウロは三日間、目が見えなくされ断食して考え、新しく神の目的のために方向転換をしていきます。

 サウロは、外国で生まれ、ギリシャ語も話し、ローマ市民権を持ち、天幕造りも父から学んでいました。それらすべてが、後の異邦人伝道に役立っていきました。 彼の熱心さは、神の深い愛によって変えられ、暴力的ではなく自分が迫害されても耐え抜く力になりました。

 いくら正しいと思っていることがあっても、イエスさまに出会うことで、大きく変わることがあるのです。 神のことばに聞くことで、修正されていくのです。 彼は自分の間違ったところを正しく解き明かし、新約聖書の中に残しました。

 

 人は造り主である神から離れると、人生が分からなくなるのです。

正しい歩むべき道や、方向を見失うのです。しかし、イエスに出会うことで、初めて本来の生きるべき道に戻ることができるのです。 

 神のことばである聖書を読んでいくことで、大きく変わります。 ・・・使徒 9:1-9

 

 

 

 

 

      「神を求める者は、幸いです」

 

  ピリポは、サマリヤの町々で伝道し大きな成果を上げていました。

しかし、その後、御使いが誰もいないガザへの道に行きなさいと告げます。

 丁度そこを通っていたのは、エチオピアの大臣でした。 彼はエルサレムの礼拝から帰るところで、馬車に乗りおみやげにイザヤ書の写本を買い、待ちきれずに読んでいました。帰りの道は、千五百キロ。 護衛もしもべも連れての長旅でした。 とても熱心に神を敬う人でしたが、まだ、救われていませんでした。 ここで福音を聞かなければ、遠くに行ってしまうのです。

 これが最後のチャンスでした。 

イエスさまは、お金持ちは救われにくいと言いましたが、この人は別でした。

 この世の富の虚しさを知り、何よりも、神を求めていたのです。 

 ピリポは、馬車に乗り、丁度読んでいたイザヤ書53章を解き明かします。「ほふり場に引かれていく羊とは、誰のことですか?」 これ程核心を突いた質問はありませんでした。ピリポは、十字架のイエスである事を告げ、自分はその証人ですと答えます。 丁度、水のある場所に来て、彼はバプテスマを受けます。 実は申命記(律法)には、去勢した宦官は主の集会に参加出来ないとあるのです。律法は神に近づくことの難しさを教え、キリストへ導くための養育係です。 ピリポとこの男が水から上がると、ピリポは消えます。 彼の心に、御霊が下り、大いに喜んで帰って行きました。

 どうして神さまはこの人に、良くしてくださったのでしょうか?

 かつてザアカイやサマリヤの女も個人的に祝福を得ました。彼らはごく普通の人でした。 ただ、神を待ち望んだのです。 今も、神を求める者たちに、神さまは、奇蹟的なみわざをもって答えてくださるのです。 

・・・使徒 8:26-40

 

 

 

 2023.10.22 使徒 7:54-60     「平安を残します」

 

  ステパノと大祭司らに、信じる者と信じない者との差が明確にあらわれていきます。 彼らはステパノの証言を聞き、激しい怒りに満たされますが、ステパノは、聖霊に満たされ平安の中にいます。彼らはステパノを憎み、にらみつけますが、ステパノは、彼らを見ずに天を見上げます。

 天が開かれ、父なる神の右に主イエスが立っているのが見えます。イエスさまの光り輝く栄光の姿です。 イエスさまを栄光ある救い主と信じるステパノには、殉教していく準備ができます。 しかし、彼らが見ていたのは、イエスがみすぼらしい田舎者で、十字架で苦しむみじめな者にしか映りません。 イザヤ53:2 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもなかった。」 そんな風にしか思えませんでした。

 彼らは大声で叫びながら耳をふさいで、ステパノめがけて殺到します。

彼らの目はふさがれ、耳は閉ざされ、不信仰で心も閉ざしています。

  マタイ 13:15 「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」

  ステパノの最期の祈りは、イエスさまの祈りに似ています。

  「わたしの霊をお受け下さい」 「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」 信じる者は、神に似た姿に変えられていきます。

 しかし、信じない彼らは、「自分の父、悪魔に似て、その父の欲望どおりを行い、人殺しをしていきます」 ヨハネ8:44 

 

  ステパノは、真面目に、真剣に生きていた青年で、自分の使命や役割が何であるのか考え、命をかけてキリストを証ししていったのです。

 

 

 

 

 

 

      2023.09.10   ダニエル 7:1-11        「日の老いたる者が座す」

 

 

  ダニエル書に書かれた黙示録の箇所です。 ダニエルは預言者で、今から2600年前の人で、戦争に負けて奴隷になりバビロンで生活していた。 ダニエルは終末に関する幻を2回見せられます。

ダニエル書の2章と、7~9章に出て来ます。ダニエルがバビロンに連れて来られて3年目と60年目くらいにです。 ダニエルはこの時、総理大臣にまでになっていましたが、故郷に帰ることは出来ません、引き離されたままでした。 そこで神さまは、失望しないように、未来のことを啓示します。

 神にある希望を明確にして励ますためです。 神に信頼して生きる者は神の栄光と勝利を見ると啓示していくのです。     私たちも、今日この箇所からしっかりと将来の希望を確かめていきたいと思います。

 

 この7章には、海から四つの獣が出て来ます。海は世界を表し、風で(かき立てられて)波立ち荒れています。平和な世の中ではないということを示しています。

  この四つの獣は「世界帝国」を表しています。

 第一の獣は、獅子、第二が熊、第三がひょう、第四の獣は恐ろしく強いとあります。 それぞれが、バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマです。 ダニエルはバビロンにいて、見ています。

 神さまは、未来のことをこれほどまでに正確に見ておられるという事です。

     少し簡単に説明します。

7:4 第一の獣は、獅子のようで、鷲の翼をもっていたが、その翼は抜きとられ、また地から起されて、人のように二本の足で立たせられ、かつ人の心が与えられた。

  ・・・獅子は百獣の王で、鷲は鳥の王さま。 バビロンは、非常に強い権力を持った帝国だったということです。 しかし、その翼は抜きとられ、弱くされ、這いつくばりますが、また地から起されて、人のように二本の足で立たせられます。 

   これは、ネブカデネザル王が、傲慢になって神に打たれ、牛のようになって草を食べて、夜露に濡れて、髪の毛はゴワゴワになり、爪は伸び放題で鷲の爪のようになって数年過ごしました。

    その後で悔い改めて人間の心が戻されて、神を誉めたたえるということを表しています。

        ダニエルは、この様子は見ましたが、次からは未来のことです。

 

  バビロンはあまり長く続かずに滅ぼされて、第二の獣 メド・ペルシャ が出て来ます。

ペルシャは、熊のように強く、三本の肋骨をくわえています。 この肋骨は、バビロン、エジプト、リビアで、これらの国を滅ぼして出て来ます。もっと多く食らえと言われて、バビロンよりも多くの国々を支配していきました。

        

  第三の帝国は、ひょうで、

 この国はギリシャで、背中に四つの翼があり、ものすごいスピードで世界を支配していきます。王様のアレキサンダー大王が、32歳の若さで急死する。その後、帝国は四つに分裂する。四つの頭はそれを表しています。

 確かにこの幻は、その通りに起こっていきました。

      そして、第四の獣です。

  7:7 その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた。

 この帝国は、具体的に何かの動物にたとえられていない。 たとえようのない恐ろしく強い獣です。

他の獣と違って、「十本の角」を持っている。 十は、完全数で多いという意味で、沢山の王がいるとか、多くの国の連合国だと考えられていて、後に多くの国に分裂していきます。 ローマ帝国で、今はヨーロッパです。 

   (神聖ローマ帝国は、1806年に名実ともに滅んだと世界史の本にあった)

          注目すべきは次の箇所で

7:8 私が、その角を注意して見ていると、その中に、また一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、さきの角のうち三つがその根から抜け落ちた。見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。

  この小さな角が反キリストのことで、彼のために三つの角が抜ける。角には目もあり口もあって、大口をたたく

    黙示録には、こうあります。

黙13:1 わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

  同じものです。 このローマ帝国は二回現れる。 黙示録の時代、世の終わりにまた、現れる

  復興したローマ帝国です。  

ダニエル書は、二重の意味になっている。一回目と二回目の区別が無く書かれている。黙示録にあるのは、復興したローマ帝国のことです。

 

 この帝国は

 13:2 わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。

   ・・・ ひょうのようで、熊のようで、獅子のようだったとあって、かつてのバビロン、ペルシャ、ギリシャを合わせた以上に強い国だ。

       頭には神を汚す名がついていて、龍であるサタンから、力と権威を受けて現れる。

    

     今、皆さんに考えて欲しいのは、このローマ帝国は、復興したローマ帝国です

 

ダニエ書の7:8では、

 一つの小さな角が出て来て、三つの角が抜け落ちる。小さな角には目があって、大きな事を語る口もあった。

 ・・十の角がありますが、一つの角が三つの角が抜ける。同盟を結んでいたのが抜け落ちる。

  その角は、大口を聞く、神をもののしるという意味。  この一つの目は、反キリストのことです。

 

   ダニエル書に戻ります

 

   ダニエルは、獣のように多くの国が現れては消えていく。イスラエルもこの時滅ぼされてしまった

 恐れを抱いてみています。 そうした動きのあとに、

 

7:9 わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。

    最終的に、老いたる者(天の父、神さま)が現れ、雪のように白いとは、何の汚れもない聖なるお方

   人間を近付けない燃やしてしまうほどの炎を持って、裁きを行う御座に着きます。

       火の炎とは、裁きによって悪者を燃やしてしまう。 厳しさを表す  燃やし消し去る

      そこから火の流れが出てきます

 7:10 彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。

        火の流れは、神の裁きの炎  神に敵対する者に向かって行って、焼き尽くす

    罪びとの汚れを、焼き尽くしてきよめる

         最後の審判を行い

   行いの書、いのちの書を開き、全ての民を裁いていきます。

 

 7:11 わたしは、その角の語る大いなる言葉の声がするので見ていたが、わたしが見ている間にその獣は殺され、そのからだはそこなわれて、燃える火に投げ入れられた。

      大きなことを語る角は、反キリストや帝国の支配者たち。 火の池に投げ込まれる。

      最終的に、神が現れて、獣たちを滅ぼし尽くして、残るのは、神の国だけだと、言っている

 そこに入る人たちは、どれほど幸いか。この世にものに惑わされないで、神の国を目差して旅を続けなさい

 

   ダニエルは、非常に厳しい時代の中にいました。何度も試練に合いました。

 故郷イスラエルから戦争で負けて、奴隷になって引かれて来て、もう、60数年経ちました。

千キロ以上離れているバビロンにいる。この帝国は強かったが、また、もっと強い帝国が興ってくる。

 不安になる。恐ろしい。もう無理だ。自分も年だ。力も無い。

  彼の心の中にあったのは、たとえ殺されても神を一番にしよう。命よりも神が大事だという信仰。

そういう困難を何度も乗り越えてきたのに、まだ、戻れない。真剣な神への飢え渇きがあった。

 皆さんにその飢え渇きはあるか? 神への真剣さがあるか? そこが問われる。

   そのダニエルの真剣さ、飢え渇きに、神さまは答えてくれた

 神の国が一番強い帝国だ。 他は皆滅びる。  人間が築く王国は、一時的なもので、続かない。

 神が世界の歴史を支配している。 帝国の盛衰も支配していたのは神だ。

 神が永遠の王国を築く。       

 

  そして、神に信頼して生きる者たちには、永遠の神の国の国籍を与えてくれる。

 そこが、約束の地で、永遠の楽園。 ダニエルも地上の国ではなく、天にある御国を目ざしていた

  

  ダニエルに幻を見せて、励ましと希望を与えてくれた。

  どうかこの喜びをしっかりと、握って歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

   2023.7.23  Ⅰテサロニケ4:11-18  「キリスト再臨の備え」

   

  クリスチャンとそうでない人の違いは、普段は、わかりにくいものですが、はっきりと分かるようになるのは、世の終わりの時です。

 イエスさまの再臨は、クリスチャンにとっては、この上ない喜びで、最高の時です。 しかし、そうでない外の人たちにとっては、最悪で悲しむべき時です。恐ろしい現実を見せられるからです。

 人間が創られて、堕落してからずっと混乱が続いていて、人間に救いが必要になりました。  そして、時が来て、救いの完成の時、イエスさまが天から下って来られます。空中再臨と言いますが、その時、先に天に召された信仰者、旧約時代の人も新約時代の人も、皆を連れて来ます。

 ここには、再臨の前に死んでしまった人は、再臨に間に合わないとして、大変心配する人がいたそうです。復活の恵みにあずかれないと思ったらしいのですが、先に召された人たちは、天国で幸福に満たされて過ごしています。 そして、再臨の時、イエスさまと一緒に地上にいる私たちを迎えに来て、空中に留まります。彼らに関しては何も心配はいりません。

 地上にいるクリスチャンはその時、一瞬にして空中に引き上げられます。空中携挙といいます。

 置いて行かれた人は、恐ろしい現実を突きつけられます。世界中からいっぺんに何十億人も消えてしまうからです、大変な時です。

 飛行機の中からも、逃げ場がないのに人が消えます。 今までいたのに突然消えてしまいます。そのため世界中が大混乱に、陥っていきます。

今はまだ、救いの時です。多くの人が救われるように、祈っていきましょう。 

 

 

 

 

 2023.7.16  Ⅰテサロニケ4:1-11  「神に召された者の生き方」

   

  宣教が始まった時代、真の神を知らない異邦人社会は、かなりの罪と汚れの中にあったことがこの手紙からも分ります。 

 彼らに、異邦人のような不品行や情欲を避け、自分を聖く尊く保ちなさいと書き送ります。 当時のビーナス神殿には神殿娼婦がいて、そこに行くのはごく普通のことでした。 悪いことだという意識もなかったようです。

 そのために救われた彼らが、その中に戻っていかないように注意したのです。 神を知らない民が真の神と出会うことは、衝撃的です。

 多くの日本人も、聖書には悪いことしないで、善を行えと道徳的なことしか書いないと思っているでしょう。

 しかし、聖書の中心は「福音」で、キリストが十字架に付いた。信じるならば、あなたは罪から解放され、裁きからも救われる。

 キリストが死んだだけではなく、あなたも共に死んで、よみがえったキリストと共に生きるようになる。 イエスの死によって、あなたの罪深い性質、古い邪悪な欲望も打ち砕かれ、力を失った。 罪を愛する古い性質は、葬り去られ、新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となった。

 それは、罪を愛する体が、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。 こんな不思議なことは聞いたことがないはずです。

  万物を造られた神のみこころは、あなたがたが清くなることである。

神には権威があり、力もあり、クリスチャンに聖く生きるように力を与え、違反者には裁きを与え、従う者には、報いと祝福が与えられます。

 悪者は、風に吹き飛ばされるもみがらのようで、神の裁きの日には不安にかられ、心穏やかに過ごすことはできないのです。

 

 

 

 

 

 2023.6.25        人の生き方を変えるものは何?  Ⅰテサロニケ 2:1-12

 

 パウロが生きたこの時代は、巡回する哲学者や宗教家がいて広場に人を集めて話をしていました。彼らは甘い言葉とお世辞で人々を喜ばせ、汚れた動機で自分の欲に仕えていました。 しかし、パウロは神から任命を受け、神に託された福音を、神に喜ばれるように、まじめに誠実に仕えていたのです。

 彼らが目差すのは、この世のもので自分の腹(欲)が満ちること、しかし、パウロは天にある神の国の栄光を目差していました。

 母のようにやさしく、父のように勧め、励まし、自分の命さえ与えても良いと愛に満ちていました。 しかし、かつてパウロは、全く逆の働きに励んでいました。

 ダマスコ途上で復活の主に出会い180度変わったのです。

(使 9:1、2 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。)

 

  以前は、神をそしる者、迫害する者、不遜な者で、罪びとの頭でした(Ⅰテモテ1:13、15)

 

  パウロは、的外れな生き方、誤解と偏見に満ちた生き方を、自分で考え、自分で決めていたのです。 しかし、自分が神によって、異邦人伝道の器として選ばれていたのを知ります。

使 9:15 主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。)。

 

天地が創られる前から彼を選び、定められていたと知ります。

エペソ 1:4、5 「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

 

 彼の親はユダヤ人でローマの市民権を持ち、ギリシャ語とヘブル語を話し、ギリシャ文化に通じていました。聖書を学び高名なパリサイ学者に学んでいました。

 

それらすべては、福音を伝えるために、備えられていたものでした。

自分で決める人生ではなく、神の御計画に沿った生き方を選んだのです。 

人の性別も能力も体力も神が決め、備えたものです。

それを自分の欲や的外れな生き方に用いていたのでは、本当に満たされた生き方ではなくなります。

神の声に聞くべきです。 

 

 

 

 

  2023.6.18  Ⅰテサロニケ1:1-10    「多くの患難の中で」   

 

  パウロはテサロニケのユダヤの会堂に行きました。

そこにはユダヤ人と神を敬うギリシヤ人、貴婦人たちがいて、旧約聖書の基礎を学んでいたために、イエスを受け入れ、たった三週間で教会ができました。 彼らは信仰に固く立って、労苦を惜しまずに神の愛をゆたかにあらわしていきました。 やがてこの教会は、地域の模範として成長していきます。  彼らは多くの患難を乗り越えて信仰に立ったのです。

 この患難のことは、使徒の17章に詳しく載っています。

 パウロをねたんだユダヤ人が、町のならず者を連れて暴動を起こし、パウロが泊まっていたヤソンの家に行き、「イエスという別の王がいると言ってローマ皇帝に逆らい、世界中で騒ぎを起こしている」と、訴えるのです。

 ユダヤの律法主義、多神教の偶像礼拝、皇帝を神として崇めていた時代には、正しく神への信仰を持つのは容易なことではありませんでした。

 人が生きていく時、何かに仕えて生きます。 富や名誉、自分の欲、罪に仕えることさえあります。 そのような中で偽りを捨てて、生けるまことの神に仕えるようになったのか、証し、伝えていきました。

 死人の中からよみがえった神の御子、私たちを来たるべき怒りから救い出して下さるイエスさまが、天から下って来られるのを待つようになったのです。 イエスさまが昇天した時、御使いから「同じ有様で戻ってこられます」と、聞いた弟子たちは、すぐにでも、イエスさまが再臨されると思っていました。 再臨に関しては、色んな誤解があり、落ち着きを失った者もいたために、パウロは、この手紙を書きました。  

 

 

 

  2023.6.11    ルカ 10:1-16   「宣教の使命と喜び」

 

  70人の弟子たちが、二人ずつ分かれて宣教のため送り出されました。

  その時イエスさまがは、「狼の中に中に小羊を送り出すようなものだ」と、困難さを語りました。 今もその困難さ変わりません。

 この世の宗教は、良い行いを強調します。 しかし、「福音」は信仰を言います。 信仰によって、救いも、良い行いも、神からの賜物として与えられるからです。 それを可能にする十字架と復活は、神の奇蹟によることですから、聞いたこともない話です。 そのため、素直に信じるよりも、反発したり、拒絶したりします。 神が与えようとしている「たましいの救い」より、この世の繁栄に目が向けられ、誤解や偏見が先立ってしまっています。

 種をまくことは、日頃の私たちの行いや言葉、態度によることが多いのです。 多くの人は、苦しみや悲しみを背負って、生きています。人が生きていくのは、大変なことです。 真の神を知り、自分に対する神の愛を信じて生きるのと、それを知らずに生きるのとは、全く違う生き方になっていきます。

 イエスさまを伝える働きは、救われる人と、救われない人に分ける事につながります。受け入れない者には、裁きと刑罰が待っています。

 パウロは伝道の動機を二つ上げています。 一つ目は、主の裁きの恐ろしさです。人は皆、神の前に立ち裁きを受け、それぞれに報いを受けます。刑罰から逃れる道は、イエスさまの「罪の赦し」を信じるしかありません。(Ⅱコリント5:10、11) 裁かれないように、人々に説き勧めるとあります。

 もう一つは、Ⅱコリント5:13、14の、キリストの愛です。神の愛の喜びがパウロを押し出し、宣教のエネルギーとなっていたのです。  キリストの復活は、霊的な死からの復活です。むなしい心、罪に縛られて生きることから解放するのです。救いを伝える使命は大きなものです。  

 

  2023.6.4 ルカ 14:15-24    「神の国の招きに応じる人々

 

 ここの並行箇所マタイ22章では、神の国の王様(天の父)が晩餐に大勢の人を招きます。 しかし、いざ始まるという時に、誰も来ません。

  王様は前に、しもべの預言者たちを送って招いていたのですが、彼らは迫害を受けたり、殺されたりしました。まともに信じる者がいなかったのです。 そのために、今度は次のしもべ、イエスさまを送ります。

 しかし、招かれた者たちは、それでも理由を付けて来ようとはしません。

 マタイ22:7 を見ると、 断ることは、あとで大変な目にあいます。滅ぼされるのです。 よく考えずに断った者たちに、言い訳はできません。

  マタイ22:13には、彼らは、外の暗やみにほうり出され、泣き叫び、歯ぎしりをするとあり、永遠の滅びを刈り取ります。 それくらいに真剣な話だったのです。 土地を買った人は、永遠の神の国で相続する土地を失い。 

 牛を買った者もこの世のはかない喜びのために永遠を失い。 結婚したばかりの者も、夫婦共に選ぶべきものを選べませんでした。

  聖書は言います。 生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、信仰を持てないない人がいる。(ルカ8:14)   この世のものだけに望みを置かないで、必要なものを全て備えて、私たちの人生を楽しませてくださる生ける神を誇りとし、信頼しなさい。(Ⅰテモテ 6:17)

 しもべの招きに応答した人は、厳しい試練の中にあって、深くものごとを考えていました。この世にあるもので満たされるとも思っておらず、磨かれた価値観を持っている人達でした。

  神の国の救いは完全完璧な救いです。目先のものとは違うのです。

 

 

   2023.5.28  使徒 2:14-21 「ペンテコステ、旧約預言の成就」 

 

  イエスさまが、昇天して10日目。七週の祭りが始まろうとしていました。

七週の祭りは、ユダヤの3大祭の一つ。過越の祭の安息日の翌日から7週目(50日目)に行われ、別名を「刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)と言います。(たましいの刈り入れ、救いの初穂) 

 

 過越の祭・・・(奴隷解放)

  10の災いがエジプトに下り、最後にエジプトの長男が死にます。

  子羊の血を家のかもいに塗ったイスラエル人は、災難を過ぎ越します。

    1500年後・・・・イエスさまが、十字架に付き 罪の奴隷から解放

  紅海渡河  ・・・  復 活  (死からの復活)

     エジプトを出て移動していくと、紅海が立ちふさがりました。

 後ろからはエジプト軍、絶体絶命の危機に、紅海が割れ脱出します。

 死んだも同然でしたが、命拾いし、これが、キリストの復活に当たります。

 律法(十戒)の授与・・・紅海から 約400キロを10日、40日シナイ山で過ごし、50日目に十戒が授与されます。

 新約時代に、キリストの復活から50日目に、聖霊が授与されます。

 「石の板にではなく、生ける神の御霊によって……人の心の板に」

参照 Ⅱコリ3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 そして 「終りの時に、わたしの霊を全ての人に注ごう」というヨエルの預言が成就し、神の救いの計画が具体的にあらわされたのでした。

 

 

 

 

 

 2023.5.21  使徒1:1-11 「試練からの回復-弟子たちの40日」   

 

 イエスさまの復活から40日、弟子たちは心の中で葛藤していました。

イエスさまと共に過ごした三年間。 彼らの内には若いエネルギーが、燃えたぎり、世の中変わるぞ革命だ、と意気込み、闘志を燃やしていました。

  しかし、イエスさまが逮捕され、十字架につけられる姿を見て、ただ恐くて、逃げ出しました。 その直前、自分たちは逃げない、共に命さえ捨てますと豪語していましたが、実際にはそうはいきませんでした。

  予想外だったのは、イエスさまの逮捕よりも自分たちのふがいなさ、どうしようもない弱さだったかも知れません。 彼らは普通の人たちでした。

  自分に失望し、落胆しました。  イエスさまの復活は素晴らしい、さすが神さまだ。しかし、自分はどうしようもない。弟子として失格だと、挫折感で一杯だったのです。 

 しかし、この挫折感、失望、罪責感が、十字架の救いを受けるのに、一番必要だったのです。 十字架の死と復活は、彼らの「たましいの救い」のためでもあったからです。  自分のふがいなさに失望することもなく、イエスを信じても、救いは中途半端で終わり、中途半端な信仰で終わってしまうのです。 神こそ、新しい命で、ダメな自分を生きながら新しくし、よみがえらせることの出来る方だ。 造り変えることができると期待する信仰です。

 イエスさまの死と復活と、自分が重ね合わされ、古い自分を終わらせ新しく生まれ変わる。 古い弱い自分を葬り去って、新しくなりたいと本気で思うかどうかが、彼らが本当に変わるかどうか、弟子として復帰できるかどうかを分けたのです。 失望はイエスの復活で、希望に変わりました。

 その救いとは、たましいの奥底から造り変えること。 再び来られて完全な肉体と完全な神の国に、永遠に生きること。 この世のはかない希望とは違うものでした。

 

 

 

 

 

 

   2023.5.14  ルツ1:15-22     「ナオミの試練に光」

 

  ナオミの家族は、飢饉を逃れてモアブの地に移り、息子たちも、それぞれ、モアブの娘と結婚します。

 息子たちが結婚し、家族が増え、この時は、喜びと希望に満ちていました。

 しかし、移住してから10年がたった頃、試練が襲ってきます。 夫が亡くなり、二人の息子も後を追うように亡くなります。

 せっかく、飢饉から逃れて来て、幸福を手に入れたかと思ったら、夫と子供三人が亡くなってしまいます。 男は、働き手ですし異邦人の地でナオミは、親戚もいない孤独の身となります。

 二人の嫁は残っていますが、まだ子供もなく、血のつながる者もいません。 寂しく悲しく、不安に襲われます。 なんでこうなってしまったのか、これからどうしようか考えます。

  ナオミの信仰は、試練の中で折れかけていました。

 すると、故郷ではもう、飢饉は終わっている。食料も出回って、豊作だ、と、朗報が入ります。 その希望の光を求めて、故郷に帰ろうと帰途につきます。 しかし、こんな私と一緒に帰っても幸福にはなれないと、二人の嫁に実家に帰って再婚しなさいと告げます。 

 ナオミは、ルツに良い影響を与えており、偶像礼拝のむなしさの中で生きて来たルツは、ナオミを通して、まことの神を知っていき、ついに、あなたの神は私の神です。あなたと共に行かせて下さいと、告白するのです。 

 この世の出来事は、辛いことも起こり、試練も苦難もなくなることはありません。しかし、信仰は成長し、深い闇の中にでも、希望の光が届くようになっていくのです。真の神を信じる者には、希望はいつも失われることはありません。

 

 

 

 

 

  2023.5.7  ヨハネ15:12-20   「イエスさまの友となる」

 

  救いを受ける者は皆、キリストの弟子です。弟子となるように選ばれました。 それに、ふさわしいから選ばれたのでしょうか? そうではありません。むしろ、ふさわしくない者が選ばれ、ふさわしくなるように変えられていくのです。  彼らは、十字架と復活、聖霊の力によって生まれ変わります。

  イエスさまは、「互いに愛し合いなさい」と言います。

 「復活の証人」となる弟子たちは、キリストの愛を伝えます。 彼らの内に「愛」がなければ、その「愛」の証人にはなれません。

  人を赦すことも、肉なる人にはできません。 良い倉から良いものを出すには、良い心に変えられなければなりません(ルカ6:43-45)。 悔い改めて、きよめられることです(Ⅰヨハネ1:9)。 聖霊の働きを妨害しているものが取り除かれ、自然と赦すことができるように変えられます。 聖霊の働きで栄光から栄光へとキリストに似たものに変えられていきます(Ⅱコリ3:18)。

 弟子たちをふさわしくしたのは、神の力です。

  さらにイエスさまは、弟子たちは私の「友」となる、「友」となるように、選ばれたと言います。人が自分で選んだのならば、後になって、あの人はだめだ、選んだのは失敗だったと、やめるかも知れませんが、イエスさまが選んだ場合、見捨てたりすることはありません。

 裏切ったユダも選ばれ、イエスさまは立ち帰ることを望みましたが、信じないで自分の罪を自分で解決しようと死んでいきました。イエスさまに捨てられたのではなく、自分から捨てたのです。

 互いに愛し合うことも、福音宣教も、自分の力ではなく、神の力と栄光によってなされていきます。 良い実を結ぶのも、神につながり、そこから流れ出る力によって、結ばれていきます。人の力ではできないのです。忍耐強く神に依り頼んでいくことです。

 

 

 

 

 

   2023.4.30   「いのちのパンと代用品」    ヨハネ6:34-40 

 

  5千人の給食で、人々は、モーセの時代に荒野に降った「マナ」を思い出します。 おいしいパンで空腹が満たされたその後も、イエスさまを追いかけます。しかし、メシヤに対する期待感からではなく、ただ空腹を満たしたいからでした (ヨハネ6:26)。 

 「満腹すれば、それでいい」ということなら他の生き物も変わりません。

人間だけが、神のかたちに似せて造られ、人間だけが神を求めます。

 動物は、食べ物は求めますが、神を求めません。

 永遠の命に至る朽ちない食物、それは「イエスさまご自身」でした。

 4章で、サマリヤの女は、渇かない水があるなら、私に頂戴と言った「いのちの水」と「いのちのパン」は同じものです。 十字架で裂かれた肉、流された血、それが「いのちのパンと水」でした。

 「このパン」に出会うまでは、人のたましいは餓え、渇きます。

 プリンターのインクには、純正品と他社の互換インクがあります。品質は落ちても安い代用品がよく使われます。

 心を満たすものにも代用品があります。 趣味や娯楽、仕事、あらゆるものが代用品になります。 「神」以外の心を満たすものを「偶像」と言い、それを一番大事にしていくことを「偶像礼拝」と言います。

 代用品では永遠の命もなく、よみがえりにもあずかれません。

 この「命に至るパン」を信じ信仰生活を送っていくと、その人の内にその味わいの違いが明確になっていきます。

 人生の答え、生きる意味が教えられていきます。神の愛がその人の心を満たしていきます。 人を創造し、命を与えたのは、真の造り主、創造主なる神です。その方から離れた人は霊的飢餓状態におかれます。

  イエスさまだけが、人を永遠に生かすパンであり、心の空腹を満たすパンなのです。

 

 

 2023.4.23  ルカ 24:36-53   「復活の主が現れる」    

 

 弟子たちも主を政治的なメシヤと見ていて、死んだら終わり、革命は失敗。自分たちも元の仕事に戻ろうかと、途方に暮れていました。  

 この世における救いにだけ目を向け、復活を理解できず、混乱し、恐怖と絶望の三日間を過ごしていました。

 エマオから戻ってきた弟子も加わり、互いに復活の主に会ったと話していると、その真ん中に主が出現します。 肉の体ではなく霊の体ですから、鍵を開けてドアを開けて入って来るのではなく、いきなり真ん中にです。

 驚き恐れていると、手足の傷跡を見せ、脇腹の傷も見せます。

 まだ信じられないでいると、焼いた魚を食べて見せます。

 ・・・私の兄は 亡くなる前一カ月食事をとらず眠っていました。食べないことは死に近づくことです。 食べることは生きることで、よく食べる人は元気な人です。 何故、しつこいくらいに復活の証拠を見せたのでしょうか?

 弟子たちは、復活の証人として立たされます。その時の証言には、説得力がいり、作り話ではない、真実味がいります。そうでないと、信じてもらえません。「迫力のある証」が必要だったのです。

  永遠の命を失ったら、楽しいこともうれしいことも、逆転して、悲しみに終わるからです。全ての人に幸福になって欲しいのが、主の願いです。

  この世には多くの「宗教」と、呼ばれるものがありますが、この世の宗教は、人間が作ったものです。「キリスト教」はこの世から出たものではなく、神が持ち込んだものです。イエスさまが、弟子たちに現れなかったら彼らは解散し、すぐに消え去っていたでしょう。 弟子集団が、息を吹き返したのは、復活の主が現れて、教え、励ましたからです。すなわち、人間が作り上げたものではないということです。 弟子たちは喜び、いつも宮で主を礼拝していたと締めくくられています。

 

 

 

     2023.4.16 ルカ 24:13-35     「エマオ途上にて」 

 

   この二人の弟子は、イエスの復活を愚かなことと思い、墓は空で遺体もなく、み使いが現れてよみがえったと言ったと聞いても、信じようとしませんでした。 そのため、仲間のところには集まらず、エマオ(11キロ離れた村)に、「復活」のその日出かけてしまいます。

 するとすぐ、復活の主があとを付いて来て一緒に歩き始めます。しかし、彼らは鈍く、主であるとは気付きません。

 歩いて2時間以上かかる道に同行した主は、彼らに旧約聖書から、イエスのことがどのように書かれているのか解き明かしてくれます。

 彼らはイエスを政治的メシヤとしてしかとらえておらず、真のイエスの役割を理解していなったからです。 そうして、エマオに着きます。 もう暗くなって危険だから泊まっていきなさいと、イエスを家に迎え入れます。

 夕食の時イエスがパンを割くと、そこやっと目が開かれ、復活の主であると分かります。分かった瞬間、み姿は消えます。目的は達しました。

 彼らは、もういてもたってもいられません。目が開かれ、心に火が灯されたからです。 暗いのにエルサレムの仲間のところに走ります。

 イエスはなぜ、不信仰な彼らを追いかけて来たのでしょうか。

 一ペテロ2:4 に、「イエスは、捨てられた石である」とあります。しかし、神の目には、選ばれた尊い生ける宝石でした。 さらに、神の目から見ると、人間一人一人も高価で尊い存在です。 神の子が、全てをなげうって、はずかしめを受けながらでも、買い戻したい、救いたい、高価な宝石だったのです。

   失われたものを探して、エマオまで迎えに来てくださったのです。

 私たちの鈍い心にも、火が燃えて、その火が消えないように、この目がさらに開かれていくように。 あなたは、神に愛されています。

 

 

  2023.4.9 ルカ 24:1-12     「復活・ けた違いの希望」 

 

 人間にとって最大の恐怖は、『死ぬこと』です。

 人を脅す時、金を出せ、出さないと「殺すぞ」と脅します。脅し文句で一番なのはこれです。死というものに人はおびえ、恐れ、悲しみます。

 しかし、イエスさまは、全く違う態度を取っていました。 この方だけが、「死に打ち勝つ力」を持っていました。

 イエスさまは、三人の人を復活させましたが、彼らは時が来て、また、死んでいきました。しかし、イエスさまのご自身の復活は、朽ちない体、霊の体、永遠の体によみがえったのです。

 日曜の朝早く女性たちは、イエスさまを丁寧に埋葬しようと、香料を持ち墓に出かけます。すると、墓石は転がり番兵もいません。

  中に入って呆然としていると、御使いが現れ「なぜ生きた方を死人の中にたずねるのか。生きている方は墓にはいない、よみがえられた。 ガリラヤにいた頃、あなた方は聞いていたでしょう?」と告げるのです。

  いくら聞いていたとしても、理解しきれない、信じ切れないのが神さまの言葉です。この後喜びと驚きが爆発し、弟子たちに知らせに走りました。

 世の中には、ない方がいいものがあります。 戦争、争い、犯罪、病気や死、地震、台風、自然災害、人の心の中にある、罪や汚れです。

  パウロは、テトスの手紙で「以前には、無分別で、不従順で、迷っていた者であり、さまざまの情欲と快楽との奴隷で、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた」と告白しています。

  イエスさまは、人を不幸にしているこれら全てのものを終わらせ、人の肉体も心も世界中を、新しくするために十字架で死んで三日目に蘇られたのです。  今の世は滅びます。そして全てが新しくされるのです。これこそ桁違いの希望です。

 

 

  2023.4.9 ルカ 24:1-12     「復活・ けた違いの希望」 

 

 人間にとって最大の恐怖は、『死ぬこと』です。

 人を脅す時、金を出せ、出さないと「殺すぞ」と脅します。脅し文句で一番なのはこれです。死というものに人はおびえ、恐れ、悲しみます。

 しかし、イエスさまは、全く違う態度を取っていました。 この方だけが、「死に打ち勝つ力」を持っていました。

 イエスさまは、三人の人を復活させましたが、彼らは時が来て、また、死んでいきました。しかし、イエスさまのご自身の復活は、朽ちない体、霊の体、永遠の体によみがえったのです。

 日曜の朝早く女性たちは、イエスさまを丁寧に埋葬しようと、香料を持ち墓に出かけます。すると、墓石は転がり番兵もいません。

  中に入って呆然としていると、御使いが現れ「なぜ生きた方を死人の中にたずねるのか。生きている方は墓にはいない、よみがえられた。 ガリラヤにいた頃、あなた方は聞いていたでしょう?」と告げるのです。

  いくら聞いていたとしても、理解しきれない、信じ切れないのが神さまの言葉です。この後喜びと驚きが爆発し、弟子たちに知らせに走りました。

 世の中には、ない方がいいものがあります。 戦争、争い、犯罪、病気や死、地震、台風、自然災害、人の心の中にある、罪や汚れです。

  パウロは、テトスの手紙で「以前には、無分別で、不従順で、迷っていた者であり、さまざまの情欲と快楽との奴隷で、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた」と告白しています。

  イエスさまは、人を不幸にしているこれら全てのものを終わらせ、人の肉体も心も世界中を、新しくするために十字架で死んで三日目に蘇られたのです。  今の世は滅びます。そして全てが新しくされるのです。これこそ桁違いの希望です。

 

 

 2023.4.2   ヘブル 4:14-16   イエスさまの同情

 

  人は、それぞれ境遇も、経験も、立場も違っていて、同じように思ったり、同情したりするのは、とても難しいことだと思います。

  よく失敗し、挫折し、、苦労の多い人は、色んな面で同情心が厚いかも知れませんが、逆に出来がよくて、何でも努力し成功してきた人は、人の苦悩は理解出来ないかも知れません。

 イエスさまの身分や立場は、人間が到達することの出来ない遙かに超えた創造主です。日本人は、素晴らしい働きをする人を神と呼びますが、それとは比べられない、「真の神」として座していた方でした。 

  イエスさまは、何の心配もなく生きられ、しかも優秀で、全知全能でした。悪意も罪も全くなく、不幸なことも何もなく、失敗することも何もありませんでした。それじゃあ、冷たくて感情もないような方だったのかというと、そうではなく、愛とあわれみに満ちた方で、人をかわいそうに思ったり、同情したりしていました。

  ナインという町に行くと一人息子を失ったばかりのやもめに出会いました。主は深く同情し、担ぎ出された息子に声をかけ、よみがえらせました。

  人は同情をするにはするのですが、何も出来ないこともあります。しかし、イエスさまは違いました。イエスさまの同情心は、真実な心から出て来て、しかも力のある同情心でした。

  この悲しい残酷な「死」、絶望を与える「死」を終わらせること。人間を襲う悲しみや苦悩を終わらせることが出来る同情心で、そのために、イエスさまは、やって来られたのです。

 イエスさまの同情には行いが伴い、自らを犠牲にして「死」を終わらせるため十字架に付きました。 私たちの弱さに同情し、試練に遭われたのです。

YouTube映像はこちら

 

 

 

 

2023.3.26 詩編 58 :1-11   「正しく世を裁く神がおられる」   

 

  静岡地方裁判所は「これ以上、拘置を続けることは、耐え難いほどの正義に反する」として、48年ぶりに袴田事件の容疑者を釈放した。しかしこれを 東京高等裁判所がひっくり返し、すると次に東京最高裁判所が高裁の決定を取り消し、先週やっと本当に無罪にするかどうかの再審が行われる事となりました。無罪にならなければ、死刑を執行されるという恐れは消えないからだそうで、57年も前の冤罪事件はまだ解決していなかったということなのです。  日本でも冤罪事件は数多くあり、いずれも、「自分達の権威や面子を守る」ために、都合のいいように証拠を捏造し犯人を作り上げてしまうことが行われていたのです。

 ダビデはこの詩篇で神を恐れることもなく不正な裁判をしている権力者を裁いてくれるように、必至に叫んでいます。 

 もし、本当に真の神がいないのなら、闇の中で行われた様々な不正も悪も明るみに出ることなく埋もれて行ってしまいます。

  しかし全てを見抜く神は生きて働いていて、不正な裁判があっても、時が来たら全てが正しく裁かれます。神だけが、正しくものごとを判断し、間違うこともなく公正に裁くことができる方です。 逆に神がいないと大変なことになるのです。 そして、この神の前に全ての人の罪も明確です。

 しかし、神は、神を畏れ敬う者に、救いのみ手を伸べてくれました。それがキリストの十字架です。 神は正しく裁きを行われますが、あわれみをもって救いの道を用意し、悔い改める者に、脱出の道を備えました。

 私たちを新しく造り直すために、イエスさまは、十字架で苦しみました。 

 三日目に復活し、私たちにも復活の希望と、生きる勇気、力を与えてくれました。 しかし、神を侮って生きる者には、厳しい裁きが待っているのです。 

 

 

 

  2023.3.19 創世記 32:13-21  「天のふるさとを目ざして」

  (ヤコブとエサウの動画をご覧ください)

 

  兄のエサウは、神への信仰も財産の相続権も大事に思わない人でした。ヤコブはそんな兄をどこか見下し兄をあざむき父をだまして、長子の権利を奪うのですが、兄に殺意を抱かれ逃げ出します。

 逃げた先の叔父ラバンは、貪欲な人で、自分の利益に執着しています。ヤコブは居候の身で苦労しながらも、信仰が磨かれていきます。

 神がヤコブに良くしてくれて彼の家畜が増えていくと今度は、ねたまれて居心地も悪くなります。 つえ一本で出かけ、帰って来る時は大家族と多くの使用人と多くの家畜を連れて来ます。

 ヨルダン川を渡ると兄が住む所で、兄はヤコブを迎えに400人を連れて出て来ます。ヤコブは恐ろしくなって、下心ある贈り物で、兄の心をしずめようとたくらみますが不安は去りません。そこで祈ることにします。

 祈りは神との格闘となり、ヤコブはみ心のままにと自分を神にささげます。ヤコブの自我が砕かれ、もものつがいが外されます。

 ヤコブが足を引きずりながら、7回地にひれ伏しエサウに謝罪の意を表すとエサウはもう黙っていられず、走り寄ってヤコブを抱きます。

 二人は和解します。 ヤコブは人を押しのける人でしたが神によって変えられ、神の国にふさわしい人となっていきました。 ヨルダンを渡ることは洗礼を意味しています。神の約束は真実で、ヤコブは見捨てられず、ゆたかに祝福を受けました。 しかし実際、彼が望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷でした(ヘブル11:16)。 私たちの国籍は天にある(ピリピ3:20)。

 

  私たちも天の故郷を目指して今旅しているのです。

一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないように(ヘブル12:16)と、警告されています。 

   

 2023.3.5  使徒7:51-60      父よ、彼らをおゆるし下さい

 

  ステパノは、キリストのゆえに虚偽の訴えで裁判にかけられました。

彼はイスラエルの歴史を長々と話し、最後にキリストこそ、正しい方で聖書が伝える救い主だ。 しかし、あなた方は十字架に付けたと断罪します。

 ユダヤの議員たちは、一斉に歯ぎしりしステパノを処刑場に引きずり出し、石を投げます。 死の直前ステパノは「「彼らをゆるしたまえ」と、取りなしました。 先に同じように「彼らは、自分で何をしているのか分かっていないのです」と、祈ったのは十字架上のイエスさまです。

 ここのあるのは、敵をも愛する愛でした。 ステパノも御霊に満たされて、同じように祈りました。そして彼の目には、天にいるイエスさまが見えました。霊の目が開かれたステパノと、目が見えない議員たちが対称的です。

  日本では、長年の迫害の歴史の後、今「信教の自由」を憲法に掲げています。しかし、多くの人は、まだその中の意義ある事に気付いていません。

 ある自治会で、神社は宗教ではなく、慣習であるとして色んな行事を行おうとしましたが、裁判になり、それは公共性を欠いていると明確にされました。 神社の方式に従った神事や祭りは、自治会とは区別して、氏子集団等の組織ですべきである。自治会活動には入れられないと限界が指摘されたのです。 戦時中に軍国主義の中、国家神道を掲げて、逆らうと弾圧され、そこで、恐怖を植え付けられ、無意識のうちに何かあると恐いから、「長いものには巻かれろ」。 そういう心理も根底にあるようです。

 父よ、彼らは何も知らずにいます。どうか、十字架の憐れみを、全ての人に知らせてください。

あんなに恐ろしい場面で、ステパノは絶望していませんでした。

一粒の麦が地に落ち、多くの人が救われていきました。

 

 

 

 

 

2023.2.26   ローマ8:19-25    「忍耐のすすめ」

 

彼は宣教師として働き、どこへ行っても、なかなか信じてもらえず、攻撃を

受けたり、怪しまれたり、平和を乱すと言われ訴えられ逮捕されたりしまし

た。パウロの労苦は大変なもので、Ⅱコリント11:24-28に、詳しく書かれて

私たちは色々な時に忍耐をしています。 忍耐できずにすぐに弱音を吐

いたり、あきらめたり、いらだつようでは自分も周りも困ってしまいます。

 すぐに感情を乱したり、怒り出すのも、周囲から喜ばれませんし、思いつ

いたこと、心に浮かぶことを何でもロに出してしまっても、大変なことになりま

す。 思慮深く人情味をもつには、忍耐する力が必要です。

 そして、何ごとも自分の思い通りにならなかったとしても、神の御心がなる

ように信頼して行<には、耐え忍ぶ必要があります。

 聖書は、私たちに忍耐することの大切さを教え、失望しないで希望を持っ

て生きるように、励ましています(ロマ15:4)。

 パウロは、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする

栄光に比べると、言うに足りない。」と、言いました。

います。

 こんなに困難があったら、くじけてやめてしまうのが普通かも知れません

が、決してあきらめません。 さらに、祈って力を受けて、前進するのです。

 何故かと思うのですが、それは福音を伝え人が救われることは、全ての

人の生涯の中で最も重要なことだからです。

 大きな事には大きな犠牲を払い、大きな忍耐を働かせます。

  信仰の戦いを戦い抜いていくには、絶えず祈ること、主からの力を受け

ながら忍耐していくこと、そうしていく者が後で見る「神の栄光」は特別なもの

です。 この世のものとは比較出来ないほどの栄光です。

 

 

 

      「真理は自由を与える」   ヨハネ 8:31-38 

 

  人は、自由に生きているようで、決して自由には生きていません。

 過去に人に傷付けられた人は、その傷が癒やされないまま苦しみ続け、フラッシュバックして、何度も思い出して苦しみ、恨みや憎しみに縛られたりしています。 間違った教えや風習、古い伝統、迷信も人をとらえ従わせます。  スマホ依存症、ギャンブル依存症、買い物依存症、これらも、人から自由を奪い、縛り付けます。

 異端の教会では、自分で自由に聖書を読んだり、信仰書を読むことを禁じ、組織や上の人に従うように仕向け、ついに自分の頭で考えることをやめ、組織の言うまま、組織の奴隷にされていくそうです。 信じる対象は神なのに、神と直接つながることがなく、制約された中で生きて行きます。

 イエスさまが現れて「 私を信じる者は、自由になる。私は、真理、自由、いのちである」と、言いました。 パリサイ人らは、その意味が分からず、自分は自由だ。お前はおかしいと反発しました。

 彼らは、表面上は正しく生きているようで、心の内は汚れた墓のようで、罪と汚れに縛られていると言われたのです。

 善人は良い倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す (マタイ12:34)。良い実を実らせるのは、良い木で、悪い木は悪い実を実らます(ルカ6:43)。

 イエスさまを信じた人は、自由を与えられます。 それは、良い実を実らせる自由。神の言葉を喜ぶ自由です。 聖化は、生涯にわたって行われます。 心がさらにきよめられるように、悔い改めは必要です(Ⅰヨハネ1:9)。 素直に心からの信仰をもって悔い改めつつ、神とみことばに信頼し、聖霊の導きにゆだねていきましょう。

 

 

 

 2023.02.12   マタイ 25:14-26   「自分らしく生きなさい」 

 

 自分らしく生きるとは、どういうことでしょうか?

人はそれぞれの生き方があって良いはずですが、人はいつも、他人を意識し、人と比べて生きようとします。

 イエスさまの弟子たちも、道々「誰が一番偉いか」と、論じ合っていたり、ヤコブとヨハネの母も「うちの息子を偉くしてください」と、イエスさまに直接願い出たと書かれています。 人よりも偉くなりたい、良くなりたい、上に行きたいと私たちも、向上心を植え付けられて成長してきました。

 学校の成績も、仕事の成績も、いつも人と比べられ、評価されるものですから、すっかりと自信を失い、自分はだめな人間だと思い込まされたり、おかしな自信を持ってしまったりして行きます。

 聖書に出てくる「タラント」のたとえも、5タラントの人は立派で、2タラント、1タラントの人は、だめなのかというと、違うのです。

人は、1タラントだと才能なしとか、だめな人と評価されそうですが、神さまは全ての人に「あなたは私の目に高価で、尊い」と、語っているのです。罪の真ん中にいる人でも、同じ言葉が語られます。

  それぞれに身の丈に合ったことをすれば、神さまは、全く同じ高い評価をしてくれています。キリストの体である器官には、目、鼻、口、お尻と色んなものがありますが、そこにも優劣はなく全てのものが必要なものだと、書かれています。 そうか、自分は「高価で尊い」のだから、それを信じて、そのように「高価で尊い生き方をして行こう」と信じる事です。 

  それぞれに、役割があり、自分のやるべき事をやっていく、それが大事なのです。 

主の元に行ってきよめられ、自分らしい生き方を考え直していく。

 それをやっていけば、自分らしく生きられるのです。

他の人と比べたり、卑下したり、高ぶる必要もなくなっていくのです。

 

 

 

  2023.01.22   Ⅰテサロニケ5:1-22 「一番大事なことは何?」

 

  誰からも愛されていないと思っていると、生きていてもしょうがないと思い込んでしまったり、人ともうまく接することが出来なくなるということがあるようです。 人が生きて行くには、誰かが自分の存在を認め、喜んでくれているる、自分は愛されているという認識が必要で、そのことで心が満たされたり、支えられたりしていきます。

 そしてそれが、家族や友人の愛。すなわち人の愛だけではなく、神の愛にまで広がっていく時、その人の人生はさらに恵まれたものになっていきます。

 5:5には、「あなた方は光の子、昼の子である」とあります。

 人は、夜は眠っていて目を閉じていて、昼は起きて目開けて見ています。神を知っている人、神を見ている人が昼の子です。

 信仰者は、神を知り、神の愛を知っている人です。

 

  ある人が夢で神さまに出会います。するとその人は何故か、ごめんなさいと誤り、自分がいかに不出来で、やらなければならないことをやっていないのかを、あれこれ思い出し、悔い改めていった時、神さまが口を開き

 「そうじゃなくて、あなたは大事なことを忘れている。 あなたは、私の愛の深さや大きさを学び、受け取りましたか、経験して行きましたか」と聞かれます。 人は神の前に、何かしなければ、ああしなければ、これもと、行いによって神との関係を正しくしようと心がけるのが良いことだと思い込んでいます。 世界中の宗教と呼ばれるものは、それを行わせます。それは分かりやすいものです。しかし、聖書はそう言っていません。

 神の愛の深さ、大きさを知っていくことが、最も大事なことだと教えているのです。

 

 

 

  2023.01.08   ヨシュア 3:7-13  「信仰もって踏み出す」 

 

 約束の地に入る時、民が確認したことは、こうでした。

 イスラエルが選ばれたのは、強かったからではなく、むしろあなた方の数は少なく弱かった。 しかしそれでも神が選んだのは、神が愛してくれたからだ。 全ての民の内から選んで、ご自分の宝の民とされた。 ただ主があなたがたを愛し、力強いみ手をもって、奴隷からあがない出されたのだ。

  信仰の民にとって最も大切なことは、力強いみ手を持つ神の愛です。

それを人は見上げず、他のものを見て、頼ってしまいます。

 信仰者ではない他の人たちは、神の愛を知りません。 興味もなく大事なものだとも思っていません。

 モーセの後を継いだヨシュアは、ヨルダン川を前にして不安でしたが、神の愛と真実に信頼して踏み出した時、川はせき止められました。

 神が働いたのです。

 神を愛せよ。神に従えと言うことを第一にする人も、実は的外れになっているかも知れません。 神を愛せよという律法に生きるのではなく、福音に生きることです。 最も大事なことは、神に愛されているということです。

 神が私たちを選んでくれたのは、難しいことが出来るからではなく、能力があるからでもなく、従順だからでもありません。 奴隷の苦しみから解放して、ご自分の子とされたのは、愛してくれたからです!

 全ての人が神に愛されているのは、間違いありません。

 身代わりの十字架を見れば分かります。 それらのことは、ものすごく大事なことです。 神に愛されていると分かっている子は、神に従おうとします。 自分は愛されてもいないと思う子は、従おうとしないで、適当に済まそうとするはずです。 

 

 

  2022.12.11  ルカ 1:8-23   「祝福されるザカリヤ」 

 

 ザカリヤと妻には子供はなく、すでに生まれてくる可能性のない年になっていました。 不妊は当時神に呪われていると言われる時代だったので、肩身の狭い思いがありましたが、くじ引きで生涯に一度という神殿での名誉ある奉仕が当たります。 これを終えたら「もう、いいこともないだろう」。

 彼の気持ちはこんな感じだったかも知れません。

  ところが、当番のその日、神殿の中に突然御使いが現れ、平凡な老夫婦の生涯に、特別な奉仕が待っていると告げられるのでした。

 それは、救い主に先立って生まれるエリヤの親になるという大きな役割でした。 人の思いと神の思いは大きく違うものです。

   アブラハムも、御使いが来て、来年子供が産まれると言われた時に、信じられませんでした。妻のサラも笑いました。

 モーセ人は、燃える芝の前で、あなたをエジプトに遣わすと言われた時、自分は口べたですから、だめですと言いました。 色んな人が神からの召しを受けた時、驚き尻込みします。    みことばにこうあります。

  詩 37:5,6

 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」   先に救われた人はみな、隣人に神の愛を伝えるという役割を与えられています。どうかそのことを、祈りつつ、この期間にまた機会があったら伝えていきましょう。

 

 

 

  2022.12.4   イザヤ 9:1-7   「待ち望まれる救い主」 

 

 イエスさまが誕生する700年前、北のガリラヤはアッシリヤに攻められ王侯貴族は殺され、手に職を持った技術者は奴隷にされ、連行されました。  残ったのは貧しい人たちだけで、その後外国人も住むようになり、その影響で彼らは異教の神と真の神の両方を礼拝するようになります。 

 残された南ユダ王国も、いつ攻められるか分かりませんから、心配で心配でしょうがありません。

 しかし、一番先に滅亡したガリラヤに、「光が照る」とイザヤは預言しました。 イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、育ちはガリラヤのナザレです。 十二弟子のほとんどもこの地方の出身です。

 宣教の始まりもガリラヤで、あの有名な「山上の垂訓」も、5千人の給食の奇蹟もガリラヤでした。

 ガリラヤの人たちの心は暗くなり、神の恵みから離れて、闇の中を歩んでいた。 しかし、暗黒の地に住む人々の上に光が照る。 その時、忍耐していた農夫が収穫の時を迎えて喜ぶように、彼らも喜びに満ちあふれる。 

  またそれは、ミデヤンの日の大勝利のように、誰も予測できなかった大逆転の勝利が起こる。

  その子の名は、「力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、最終的に全ての戦争、争いを終わらせ、完全な平和を成し遂げると、励ますのでした。   実はこの預言は、まだ半分しか成就しておらず、平和の君は再びやって来て、完全な勝利と平和を成し遂げるのです。  人々は、この神の約束を信じて、希望を持って楽しみに待ったのです。

 

 

 

 

 2022.11.27    創世記 45:1-8  「計画を実現する神」 

 

 ヨセフは兄たちに憎まれ奴隷として売られます。 元はと言えば父親のえこひいきが原因でしたが、彼も兄たちへの思いやりに欠けていました。

 兄たちは弟は獣に殺されたと父に嘘をつきました。

 そんな家族の不幸を背負ったヨセフは、それでも前向きに奴隷として生き、主人に仕えていきます。 すると主人はヨセフに全財産を管理させるほど信頼していきます。 うまく行っているようでしたがまた事件が起こり、今度は「牢獄」に入れられます。 主人の妻がヨセフに言い寄り、それを断ると、「あの奴隷に襲われた」と嘘をつかれ死刑囚になるのです。

 無実の罪でどん底に落とされ、さぞ恨み深くなったのかと思うと、彼はまた模範囚となって看守長に気に入られ、囚人の監督になります。

 彼は、神の特別な計画の中にいました。

 ヨセフは牢獄で、王の側近に会います。 不思議な夢を見た話が続き、エジプトの王も不思議な夢を見、ヨセフは神に教えられ夢を解き明かし、今度は王に気に入られ、ついに牢獄から脱出します。

 広い地域に飢饉がやって来ました。兄たちはエジプトの噂を聞いて食料を求めて出かけるとそこに待っていたのは、総理大臣になったヨセフでした。

 ヨセフはここで恨みを晴らすか、それとも赦していくのか。

  ヨセフは言います、「私をここに送ったのはあなた方ではなく神です。神がこの困難から救い出すために私を遣わしたのです」

  イエスさまが現れます。 

罪深い者たちの上にも神の恵みがゆたかに望んでいることを、伝えるために遣われたのです。

 

 

 

 2022.12.4   イザヤ 9:1-7   「待ち望まれる救い主」 

 

 イエスさまが誕生する700年前、北のガリラヤはアッシリヤに攻められ王侯貴族は殺され、手に職を持った技術者は奴隷にされ、連行されました。  残ったのは貧しい人たちだけで、その後外国人も住むようになり、その影響で彼らは異教の神と真の神の両方を礼拝するようになります。 

 残された南ユダ王国も、いつ攻められるか分かりませんから、心配で心配でしょうがありません。

 しかし、一番先に滅亡したガリラヤに、「光が照る」とイザヤは預言しました。 イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、育ちはガリラヤのナザレです。 十二弟子のほとんどもこの地方の出身です。

 宣教の始まりもガリラヤで、あの有名な「山上の垂訓」も、5千人の給食の奇蹟もガリラヤでした。

 ガリラヤの人たちの心は暗くなり、神の恵みから離れて、闇の中を歩んでいた。 しかし、暗黒の地に住む人々の上に光が照る。 その時、忍耐していた農夫が収穫の時を迎えて喜ぶように、彼らも喜びに満ちあふれる。 

  またそれは、ミデヤンの日の大勝利のように、誰も予測できなかった大逆転の勝利が起こる。

  その子の名は、「力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、最終的に全ての戦争、争いを終わらせ、完全な平和を成し遂げると、励ますのでした。   実はこの預言は、まだ半分しか成就しておらず、平和の君は再びやって来て、完全な勝利と平和を成し遂げるのです。  人々は、この神の約束を信じて、希望を持って楽しみに待ったのです。

 

 

2022.11.20   マタイ 14:22-33 「湖上を歩く奇蹟」

 

  湖上を歩くイエスを見て、ペテロは自分も歩くように命令して下さいと言い、歩き出すのですが、風を見て恐ろしくなりおぼれてしまいます。

  ペテロという人は、この後何度も色んな状況の中に立たされ、失敗をし、落ち込んだり、また立ち上がっていきました。 

 そして段々成長し、ペテロは岩という意味でしたが、本当に岩のようなドッシリして動かない信仰の人になって行きました。

 そして、神の言葉は、本当に信頼出来る。 生きて行く時に、神の言葉は自分の人生を支え、不安な時でも苦境の中でも、神は全てを支配し、神の手から漏れることない。その神が、自分の味方である。

 この方に信頼して生きて行くことが、自分に平安を与えてくれるんだと分かっていきます。

  人間には倒れてしまうことは何度でもあります。 しかし、また起き上がることこそ大事なことなのです。 神への信頼はそうやって強くなっていくからです。  イエスさまを信じた人は皆、人生が大きく変わっていきました。

 ものの見方、考え方も変わり、日常の過ごし方も、日曜の朝の過ごし方も変わります。 特に心の中が変化していきます。 それまでになかった光が心の中に差していく。そうして深く知っていけば行くだけ、力が抜けていきます。前は力んでいたことが、段々力まなくてやっていけるようになっていく。 信頼が強くなっていくからです。

  「私は主に信頼し、あなたのいつくしみを喜び楽しみます。あなたが私の苦しみをかえりみ、私の悩みにみ心をとめ、私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせられたからです。」   詩31:6-8 

 

2022.11.13 ルカ5:17-26 「「罪を赦す権威と奇蹟を起こす権威」」

 

 イエスの御名はさらに広まり、沢山の人が家の周りにもあふれていました。そのため「中風の人」を布団ごと運んで来た人たちは、屋根の瓦をはいで、天上から吊り下ろします。 誰もが「病の癒やし」を期待していた時、イエスさまは「あなたの罪は赦された!」と宣言します。期待外れだったのですが、これはパリサイ人らがいたために意図的に語ったものでした。

 彼らは騒ぎます「神おひとりの他に、誰も罪を赦すことはできない。神を冒涜している。あいつは何者か!」。彼らが怒るのは、ナザレのイエスは人であるのに「神」であるかのように話しているからです。

 そこでイエスさまは「罪が赦されたと言うのと、立って歩けと言うのは、どっちが簡単か?」と聞きます。 罪を赦すと言っても見た目の変化は起こりません。しかし「立って歩け」と言って歩けなかったら、それこそイエスはただの人です。奇蹟を起こせないからです。

 イエスさまは中風の人に向かって「あなたに命じる。起きなさい。床をたたんで家に帰りなさい」と言うと、即座にみなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行ったのです。

 ということは、イエスは奇蹟を起こす「神」であり、神であるがゆえに「罪を赦す権威」も持っているということが証明されてしまったのです。

 パリサイ人らは、黙ってしまいました。 人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、皆が知っていくためであると語られました。

  十字架でそれが明確にされていくのです。

 

2022.11.6   マタイ 6 :26-34 「人比較することはムダです」

 

 人と比較して自分が上だと思ったら人は傲慢になり、下だと思ったら自己卑下し、何をやってもだめだといじけてしまいます。 自分はひどいもんだと嫌気が差しみじめになります。 生きる価値がない死んでしまおうと思ったり、逆に怒りが湧いて来たりするものです。

  人が人と比較して生きて行くと、自分を見失うのです。 喜びも、自分の役割も自分が価値あるものだということも見失ってしまい、決して幸福にはなれません。 神の目には一人ひとりがなくてはならない高価で尊い存在です。 神が人を造り、個性を与えて世に送り出したのです。

  礼拝堂に同じ会社の扇風機が二つあります。この二つは同じもので性能も全く同じです。 同じでなければならないのです。

 しかし、人はどうでしょう。 わざと違うように個性を与えられています。

一人一人同じには造られていません。同じ親から生まれても随分違います。  神の目には高価であるということを証明したのが、キリストの十字架です。大事なもの愛するものは、永遠に取っておきたいものです。

 あなたに永遠を与えるために、キリストの血が流されました。

イエスの十字架の下に行って、それを受け取って欲しいと、神は願っています。一人も滅ぶのを望んでいません。 

  神の国は、何の心配もいりません。 健康も住む家も、食べるものも、衣食住全てがそろっている所です。病も老化もありません。そこに入るのは、イエスの十字架を信じるだけです。 神の義とは完全なものですが、キリストの十字架で罪は帳消しとなって、キリストの生きた完全な義が与えられる。 これが神の義です。 大切に思うから永遠が与えられました。 信じる者がそれを受け取るのです。

 

 

2022.10.30   ルカ 4:38-44  「病にも権威があった」 

 

  ペテロの義理の母が、高熱で寝込んでいて、イエスさまが熱に命令すると瞬時に癒やされ、働き始めました。 普通は高熱が続くと体がだるくなり、すぐには回復しないものですが、全てがすぐに元通りになりました。

 例えば骨折するとそこが太くなって治ります、傷が治っても跡が残ったりしますが、神の奇跡は痕跡を残さずに治すことが出来るのです。

 これは神が創造主であり、医学的な癒やしとは違って、ものを新しくしたり、新品に造り直すような力があるからです。 

 病は、辛くて嫌なもので、普通の生活が出来なくなりますので、皆が癒やされることを求めます。 しかし病も益になることがあって、普段とは違うことを学ぶことが出来たりします。人に優しくなったり、感謝したり、人格の成長に役立ったり、苦しみの中で何を考えたかが大事で、普段の生活からは得られない練られた人格、人間性が育てられていったりします。 苦しいことも幸いを得させたりするのです。 

  パウロは、わざと弱さを与えられました。 弱さゆえに神に依り頼み、神さまがいつも自分を助け、守り、知恵を与え、キリストの強さが自分に宿った、自分の弱さは、神の強さを見るためだったと証言しています。

 人は癒やされることを求めますが、神が与えようとしていたものはもっとすごいものです。 体の癒やしだけではなく、全人格の救いです。

 「神の国の福音」には、永遠の健康も不老不死も含まれています。

 あまりにも大きな祝福のために、人はよく理解できません。 

 イエスさまは、病に対しても権威あるものとして,癒やしを与え、それ以上の祝福となる「神の国の福音」を宣べ伝えていきます。

 

 

 

 

2022.10.23   ルカ 4:31-37  「その言葉に権威があった」 

 

  イエスさまが宣教し始めた時、まるで権威ある神さまご自身が語っているのかのように思え、人々はほめたたえ、その口から出るめぐみの言葉に感動していました。

 律法学者たちも、聖書を教えていましたが、彼らは語るだけで自分は実行せず、偉そうにし格好付けているだけで、大きく違って見えたのです(マタイ23:1~)。

 人々がまだ、イエスが誰なのか分からずにいる時、会堂に悪霊に取りつかれた男がいて、「あなたは神の御子です。滅ぼしに来たのですか?」と、大声で叫びました。 イエスが「黙れ、この人から出て行け」と命じると大声を上げて出て行きました。 悪霊はイエスが誰か知っていたのです。

 神が持つ権威とは、権力があり、実行する力があり、信頼され、威力があり、権限があるということで、神の権威はこれらが絶対的で、誰からも邪魔されることがない最高の権威です。 宇宙や地球がなくなったら人は生きていけませんが、神さまは全く関係ありません。時代が変わってもこの権威は変化しません。  神がどういう方なのか、よく知っていくことは重要です。

 このものすごい権威ある神さまが、自分のことを思い、自分を創造し、世に送りだし、永遠の命を与えるために、命を投げ出して救って下さったと知っていくことは、人生を支える大きな知恵、土台となっていきます。 

 偶然に生まれて来たのではなく、神に求められ生まれて来たのです。 神がどれくらい深い愛で自分を見ているのか分かっていけば、生きることにもっと慎重に真剣になっていくように思います。

 

2022.10.16   ローマ 10:1-9  「神の義と自分の義」 

 

  律法学者たちは深い知識からではなく、自分が思う「自分の義」に熱心になっていて、「神の義」からは大きくずれていました。彼らは自分は「義人だ」と思い、当然救われる(神の国に行ける)と思っていました。

 しかし、主イエスに 「へびよ、まむしの子らよ、地獄の刑罰をのがれられない」(マタイ23:33)と、言われます。  

 多くの日本人も、自分は日本の法律や規則、先祖代々の伝統や習慣を守って生きている。曲がったことはして来なかった。他人に迷惑をかけずに生きてきた。自分は完全ではないが「義しい」と、主張するでしょう。

  主イエスはこう言われました「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)

  「神の義」とは表面上の行いだけではなく心の中まで完全完璧を要求します。誰もその基準には到達できません。 全うしたのは主イエスだけです。

 神が、人間に罪を認めさせたいのは、裁きたいからではなく、赦したいからです。その重荷を軽くして、喜びを与えたいからです。  しかし、人はそれを誤解します。

 罪を認めイエスの十字架を自分のためと信じる者には、イエスの完全な行いの義を、その人の通帳に計上してくれるのです。

 通帳は、罪の借金でいっぱいでしたが、全てを帳消しにし、お金でも行いでも到達できないほどの莫大な額、天に昇る資金の「キリストの義」を何の働きがなくても与えてくれるのです。(ロマ 4:5)

  「神の義」は完全完璧な義で、救いを意味します。

 あまりにも高価で困難なものなので、無料で与えられるのです。

キリストの命の代価でしか支払えなかったからです。

 

 行いによっては人は有罪ですが、信仰によって義とされるのです。

 

 

2022.10.9   エゼキエル13:1-9  「偽りの平和と平和」  

 

  イスラエルの民は神に選ばれた民です。

 神に忠実に生きるならば、祝福を受け幸福に生きられますと、世界に神との関係を証していくためでしたが、逆に王国は分裂し、北王国は不信仰で滅亡し、残された南王国も同じ道を辿っていました。

  神に背を向けて生きていた人々に、預言者の言葉は厳しく、痛いものですから喜ばれません。 そこに現れるのが偽預言者です。

 彼らは、神さまとは関係なく、神を喜ばせるのではなく、権力者が喜ぶように、耳ざわりのいいことを語ります。 それによって、お抱え預言者として、沢山稼げたのです。彼らの神は、真の神ではなく、富や名誉が神でした。

 

  ユダの70人の議会の長老たちは、神殿の中の暗い部屋で偶像を拝み、

神殿の庭では、25人ばかりの祭司が神殿に背を向け太陽を拝み、女たちは豊穣の神タンムズの前で泣いていました。(エゼキエル8章)

 そして、偽預言者たちは、平和ではないのに『平和』と言っていたのですが、ここにあったのは偽りの平和です。

 真の平和というのは、神さまとの関係にあり、神との関係が正しいことを平和と言い、求めるべき真の平和は、神との平和です。

  神を抜きにして、真の平和はあり得ません。 神との正しい関係が破れると平和も壊れます。  神によって完全な平和が与えられるのです。

   不安がある時も祈ると平安が与えられます。不思議な平安です。(ピリピ 4:6、7 )

   神から学んだこと、教えられたことを実行していく時に、平和の神が共にいるのです。 神と共に歩む者が、平和を持ちながら生きることになるのです。(ピリピ 4:9)   

 

 

 

2022.10.2   イザヤ37:30-36  「主の熱心」

 神さまは何に、熱心なのか。何に対して一心不乱に打ち込み、そこからぶ

れないのでしょうか?

 ここでは、主をののしるアッシリヤ軍十八万五千人が、一夜にして滅ぼさ

れましたが、滅ぼすことに熱心なのでしょうか? それとも自分を信じる者

たちに、ご自身の栄光を現して、どうだとばかり自慢したいのでしょうか?

 礼拝しないと滅ぼすぞと脅すことに熱心でしょうか?

 主はこう言いました。私がイスラエルの残りの者を回復させる。彼らはしっかりと下に根を張り、上に向かって実を結ぶ。主の熱心がこれを行う。

 南ユダ王国はアッシリヤからは逃れますが、バビロンによって滅ぼされま

す。そこから帰還し信仰を回復させていきます。全て主の熱心によってなさ

れました。 そして、この神の熱心が一番あらわされたのが、御子の十字架

で、このことによって根を張り、良い実を結ぶようになれたのです。

 神の熱心は、裁<ためではな<人を救うために熱心です。

 神をののしっていた者たちに復讐したいのでもなく、十字架で流された血

によって、すべての罪、ののしりや、悪意をゆるし、洗いきよめたいのです。

 人が地獄に行くのではなく、心から天国へ行くことを望まれています。

永遠のいのちを与え、祝福したいのです。

 心から幸せになってもらいたい、救われて欲しい。永遠に生きて共に喜び

に満たされて欲しいのです。

  いつの時代でも敵対する者いますが、蹟<な、天での報いはもっと大き

い。 主が熱心に味方する、勝ち得てあまりある勝利を与える。惑わされる

なと言われているのが、主の熱心です。

 今、悪がはびこり、時代が悪くなり、起こらなくてもいいことが起こってくるのは、主の愛と熱心さに気付いてもらうためなのです。

 

 2022.9.25   (敬老の日記念) サムエル下 19:31-40 「信仰の人バルジライ」

 

 ダビデの長男アムノンが異母妹のタマルに恋し、病気の見舞いにと呼び出し、無理矢理穢してしまいます。悲しみ暮らす妹を見て実の兄三男アブシャロムは怒り、祝いの席に呼び出した長男を殺します。

 ダビデ王家の混乱が、国を巻き込んだ大事件に発展していきます。

 神さまは、イスラエルを選び種を蒔き聖なる民になるように、水を与え、雑草を抜き育ててきました。 イスラエルの王は信仰のリーダーでなければなりません。 誰がダビデの後、王座に就くのでしょう。ダビデは思案に暮れます。

 アブシャロムは悔い改めることもなく自己を正当化し、今度は自分で王になろうと父の命を狙って反乱を起こします。 王家には信仰はなく色と欲に満ち、民もダビデの部下たちも惑わされアブシャロムに付いてしまいました。

 少人数であわてて都落ちしたダビデを迎えるのが80歳のバルジライです。 どっちが勝つか計算もなく、何の欲もなくダビデらを世話します。

 その後神が動き、どんでん返しが起こり、アブシャロムは死にダビデは帰っていきます。 王宮で面倒を見ますと褒美を与えるとバルジライは断ります。彼は無欲で、穏やかでした。 神の御心のままに生き、いつも神を礼拝し、神のみ旨はどこにあるのか、神に問いながら生きた生涯。彼自身満たされながら生きてきたことが分かります。

 平和を愛し周囲の者に良い感化を与えて生き続けた生涯、最後に微力ながらも、大きな役割を果たすことが出来て喜ばれ、ダビデの心にも深く刻まれました。

  都会の王家の豪華で贅沢な暮らしよりも、素晴らしい永遠の神の国が彼を待っていました。信仰者として生き抜いた者への神からの報いでした。

 

 

 

2022.9.18   ヨハネ4 :20-24  「霊とまことによる礼拝」  

 

  旧約時代は、霊と真をもって礼拝をささげられていませんでした。

礼拝は形式的で動物の生け贄は人の心をきよめることが出来なかったのです。しかし、神は見捨てません。救い主が現れ変わっていくのです。

  「霊とまことによる礼拝」とは、神に喜ばれる礼拝です。何か物質的利益を期待したり、繁栄するとか、自分の願望をかなえることが目的だったり、神を敬うのでなく利用する下心があり、神を道具のように使おうとしたり、見返りを期待したり、取り引きするように私の願いをかなえて下さいというのは、「霊と真による礼拝」ではありません。

  神が最も喜ばれるものは、人間が素直な心で、神を喜び、神の愛に応答する、愛し愛される関係です。神の愛を疑い、神に裁かれないように顔を出しておこうでは、霊と真によるものではありません。

  人は試練に合ったり失敗したりしながら、初めて自分には神が必要だ。神の助けや神の力が必要だと気付かされていきます。

   たましいが砕かれ、自分に何が必要か、どうすれば良いのか学んでいって、ますます神を敬うようになっていきます。 

  教会の礼拝に出ている時だけではなく、普段生活している時も、神を敬いながら生きること、いつでもどこでも主を礼拝しながら生きること。

 礼拝が終わって家に帰ると、神を忘れてわがままに生きていたら、おかしいことです。 普段から、いつも神を見上げ、敬い、神の教えを喜んで生きるようになっていくことです。 それが世界中どこででも行われている「霊と真による礼拝」です。教会で行われる礼拝に出ずに、家で礼拝しますというのは違います。イエスさまが言われたのは、心の中に神殿があり、いつでも主を一番として生きることを意味しています。 キリストが歩んだように、心から神を敬いながら生きる民を、神は求めていたのです。

 

 

 

2022.9.11   詩篇31:1-14  「神を喜ぶこと・礼拝する理由3」

   ダビデはこの時、大変厳しい状況に追い込まれ、もがき苦しんでいました。 その原因は何も自分は悪くないのに、濡れ衣を着せられ悪者にされ、敵だけではなく、味方であるはずの友人らも悪くののしり顔を背け、嘘、偽りを噂して、命までも取ろうとしていたのです。

  どうしようもない状況の中、自分ではどうすることも出来ません。

ダビデは、うつむきあえぎながら神に祈ります。

  私たちも、生きて行く時に、どうすることも出来ない、苦しい厳しい状況に陥ることがあります。 誰にも言えない。誰が助けてくれるのか。しかし、生きて働く神がいる。正しく見ている正義と公正に満ちた神がいる。

 「神よ、彼らを黙らせ、彼らを陰府に落とし黙らせて下さい」と、訴えるのですが、この感情を吐き出す祈りは、認められているのです。

 祈る中で、自分で復讐するのではなく、神に委ね、神が必ず適切に悔い改めに至るように働いて下さると、神に信頼するためのものだからです。

 そして落ち着いてきたら、敵の祝福を祈ることで、自分の心が楽になっていきます。恨み辛みを残すと苦しいのは自分ですから、相手の祝福を祈ることで消し去られていきます。 主は、全てのことを正しく判断し、最善の方法でものごとを治めることが出来る方です。

  何か喜ばしいことが起こったから、神に感謝し喜ぶということもできますが、それだけではなく、神の偉大さのゆえに、この神に不可能はないから、神を信頼し神を喜び、必ず正しく裁いて下さるから、神を喜べるのです。 

どうか、不安な世の中にあって、信仰に立てるように祈りましょう。

 

 

 

 2022.8.28   エペソ 1:1-11   「私たちが礼拝する理由」

 

  礼拝は神を敬い、感謝し、救われたことを喜び、ほめたたえ、神の愛に応答し、神を愛する行為として礼拝するのです。

 神は人を愛するものとして幸福を望み造りました。人は愛し愛されて、幸せになるために生まれて来ました。 親が生まれて来た子に不幸を願い、呪われるように願うことはないのと同じです。人は愛され幸福になるために生まれて来たのです。

 人の心は、この神との出会いなしに満たされる事はありません。人生の答えや意味、生まれて来た理由を知るには創造主を知ることです。

 神は理由なく、ものを造ることはないからです。  しかし、人はこう言うのです 「自分は神を信じていない。神に頼らない、祈りもしない。自分で頑張って、自力で生きる。神を礼拝しなくても、仕事はうまく行くし、会社は繁盛している」と。そう言いながら、神以外のもので心を満たそうと、何かを愛し、神のようにして崇拝し、それを生きる動機として大事にして生きます。

 富、名誉、快楽、仕事、趣味、人、何でも一番に愛するものは偶像となるのです。すなわち神を信じないという人も神以外のものを「神」にして生きているということです。聖書はそれを偶像礼拝と呼んでいます。

 しかし、偶像では、心は満たされず、救いもありません。神が与える霊的祝福は渇くことのないものです。 キリストを信じるには、知恵や悟りが必要です。真剣に求めないとこの奥義は理解できません。神が知恵と悟りを与え、人を救うのです。 

 私たちが礼拝する理由は、神が、どれほど大きなことをしてくれたのか分かったからです。知恵を与えられ悟ったからです。 救いを受けた者の心には光が差します。 この光の偉大さが分かってくれば礼拝が喜びとなるのです。

 

 

         2022.8.21   詩篇 32:1-11  「罪赦される者は幸いである」

 

  ある人はこう考えます。生きて行くと良いことも悪いことにも起こります。 幸運を手に入れる人もいれば、どう頑張っても、どうすることも出来ない困難にも出会います。結局、人は生まれ持っての「運命」に左右されながら生きるしかないのではないだろうか?

 実はこのような考えは、神を知らない人の考えることなのです。

聖書はこう言います。  「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。」詩 32:1  これを書いたのは、ダビデです。

 若い頃苦労したダビデも王になり、権力も地位も全てを手に入れます。その時油断したのか、とんでもない誘惑に陥ります。夕涼みしていた王宮の屋上から、水浴びをする美人を見、手をかけてしまい妊娠が分かります。その女の夫は戦場に行っていたダビデ軍の勇敢な兵士でしたが、彼を殺し、その妻を奪ってしまいます。

  姦淫の罪、殺人罪、取り返しが付かないことをして「罪責感」が重くのしかかります。 何よりも神に忠実に生きて来たのに、まさかこんなことをしてしまうとはと、思いもよらなかったでしょうし、情けなかったことでしょう。

 預言者ナタンがが来て罪を責めると、ダビデは他の王とは違って素直に認め断食して悔い改めます。その結果、生まれてくる子は身代わりに死に、ダビデは生かされます。 

  神は、罪を見過ごすことが出来ない完璧な方で、全てを知っています。

神の前に全てが明らかです。そのために、救い主が身代わりに十字架で死に救いのチャンスが与えられました。神は赦すと言ったら、本当に赦します。 運が良いとか悪いとかではなく、それを越えて、神に罪赦された者が、永遠の幸福と生きて働く神に信頼する地上の生活を手に入れるのです。 これこそが幸いな人であると聖書は言うのです。

 

 

 

 

 

 

 2022.6.12  ローマ 8:12-18  「神の子とされた喜び」 

 

  神の子とされた者は、親から良い物を相続します。

パウロが最初に上げたのは、「罪からの解放」です。もう肉(罪の性質)に従って生きる必要はなくなりました。 十字架によって、罪との関係は断ち切られました。 古き人はキリストと共に十字架につけられ罪の奴隷から解放され自由にされました(ロマ6:6,7)。自由は良い実を結ぶ自由です。

  しかしサタンは、人の頭に思いや感情を入れて来ます。「ユダはイエスを裏切る思いをサタンから入れられていた」(ヨハネ13:2)とあります。 自分はまだ解放されていないと思い込むのは、間違いです。イエスを信じた者は、十字架が何をしてくれたのかも信じるべきです。自分の思いよりも聖書に何とあるかです。悔い改めて主の言葉に立ちましょう。

  次に奴隷の子と自由の子の対比があり、子とされた者の従順は、父への愛と信頼から出るものですが、奴隷の従順は強制されたものです。奴隷はまだ罪から解放されておらず、不従順の心を持っているからです。

 人は肉の父から色んなものを相続しますが、天の父は健康で、病気の遺伝子は持っていません。性格的にも罪の性質は持っていません。永遠の命と朽ちない永遠の体を持っています。その全てを相続します。

 神の子とされた者は、生涯にわたってキリストに似たものとなるように変えられていきます。この世を生きる時にもあらゆる助けを受け、支えられ導かれ歩みます。肉に導かれるなら死(虚無)に至り、御霊に導かれるなら生きます。 子とされた者の喜びは大きく、それと比べたら、今の苦労は小さいではないかとパウロは言うのです。 

 

 

 

 

 上に立ちたいと思う者は、仕える者となりなさい。

互いに愛し合い、仕え合うようにと、イエスは弟子たちの足を洗った。